こんにちは。
逗子市沼間にて先月より開業させて頂いております
たかはし鍼灸院・接骨院の髙橋です。
今回は、わたくし髙橋 大樹の修業時代についてお話させて頂きます。
現在、柔道整復師として開業させて頂いておりますが、私がこの道を志したのは20代前半。
自分の限界まで、昇れる所まで昇り詰めようと『サッカー』漬けの毎日を送っていた頃、
重度の足首捻挫や、膝の靭帯損傷、脛(すね)の疲労骨折などを患う事がありました。
友人の紹介で通っていた隣町の接骨院は、自転車で10分の所にあり、毎日多くの患者さんで賑わっていました。
私は早く怪我を治して競技復帰したくてピリピリしていたのですが、何故か訪れている多くの患者さん達は笑顔。
患者さん達は、井戸端会議でもしているかのように楽しそうに談笑。
初めて会う私にも、昔からの知り合いかのように色々と話しかけてくる。
小さい頃は、人見知りの性格だった私は(今は誰も信じてはくれませんが(笑))、
その輪の中には入れず、近所の方々の憩いの場となっている接骨院に違和感さえ覚えていました。
度重なる怪我による焦りもあり、こっちは早く怪我を治したいんだよ! といった心持ちでした。
先生と呼ばれる若いお兄さん!?とお姉さん!? も一緒になって大笑いをしている。
その若先生は優しく温和な性格で、私の辛い気持ちの訴えを “痛めた足を擦りながら” じっくり聞いてくれる、
そんな癒し系の先生でありました。焦る気持ちもじっくりと話を聞いてくれると、自然と癒されていきました。
いつしか、怪我の治療と共に心のケアもしてもらい、その結果心身共に癒されていて、救われるかのような気持ちではありました。
しかし、痛みが良くなり練習に復帰すると、痛みが再発。
何度も良くなってはまた再発。という日々を過ごし、どうにもならない歯痒さを抱えていました。
自分でも出来る限りの処置を行い、独学でテーピングも行いと。
また、時には、大学病院で精密検査を受けたり、違う治療院に行ってみたり、
そんな繰り返しの日々に嫌気がさしていた頃、
いつもの接骨院に見た事のない『 お爺さん先生 』がいたのです。
長い白衣を纏ったお爺さん先生は、長身で面長、黒縁メガネが良く似合う正にベテランドクターの風貌。
かすれ声のお爺さん先生に痛めた足の事を話しても、聞いているのか聞いていないのか、よく分からない。ん!?
帰ってくる言葉も、しゃがれ声で何を言っているのか、よく分からない。あれ!?
なにやらブツブツ言いながら、私の痛めた足を擦っている。おい!ベテランドクター大丈夫か!?と心では思っていました。
しかし、その後の不思議な感覚が、私をこの道へと導くきっかけとなるのでした。
お爺さん先生の、しわしわで大きく分厚い手で痛めた足を擦られていると、
不思議と痛みはスーッと和らぎ、怪我が治っていくようでした。
若先生の時には感じられなかった、その圧倒的な包容力のようなオーラに魅了されてしまったのです。
何なんだ!? 毎回はいないが、時々いるお爺さん先生に治療してもらう度に、そう思っていました。
… 全然話を聞いてくれないが、一体、この人は何を考えているんだろう …
… 世の中にはこんな人もいるのかぁ、これが俗に言う神の手か!? …
… いつか自分もこんな仕事をしてみたいなぁ …
… みんなこの先生に会いに来てるのかなぁ …
なんて考えていました。
いつしか怪我も治り、競技に復帰していたのですが、どうにもお爺さん先生の事が気になる。
会っても特段何か話をする訳ではないのだけど、なんか… 会いたい。
出来れば、あの不思議な感覚を今一度経験したいが、わざと怪我をする訳にもいかず、心に留めておいたのです。
接骨院。
柔道整復師。
職業の一つとして、意識し始めたのは、この時でした。
いつか自分もこの職業に就きたい。自然と心からそう思っていました。
それから、やりたい想いだけで大丈夫なのか。本当に自分に向いているのか、本当に自分に出来るのか、
考えに考え抜き、若先生を始め色々な人にも相談し、
始めてお爺さん先生に遭った2年後、ついに一大決心をし、柔道整復師の道を目指す事を決意するのでした。
『 手当て 』
ケガや病気などの処置をする医療行為を「手当て」といいます。言葉の由来は諸説ありますが、
私たちが普段から自然に行っている「手を当てる」事によって得られる癒やし効果が原点という説もあるそうです。
私は、お爺さん先生が行っている、その手当てに不思議と身も心も引き込まれていきました。
この手当て、なぜ手で肌や体に触れると痛みが和らいだり、心が穏やかになったりするのか。
その理由の一つとして挙げられるのが「幸せホルモン」と呼ばれるオキシトシンの存在。
オキシトシンは人の脳で合成され、分泌される物質で、主にホルモンや神経伝達物質としての働きがあります。
脳から分泌されるオキシトシンの量は、親しい人と触れ合うなどのスキンシップによって
増大する事が様々な研究から分かっています。
愛情のこもった皮膚刺激は安らぎを与え、ストレスを緩和する。また、人との信頼関係を築く、母子の絆を深めるなど、
様々な社会的行動と関わっていると言われています。
オキシトシンが「幸せホルモン」と呼ばれるのは、この働きがある為です。
果たして、お爺さん先生がそこまで考えて足を擦ってくれていたのか、今となっては確かめる術はありませんが、
その時の私からは、確実にオキシトシンが分泌されていたような気がします。
ですので、当院での施術は『手当て』が根本にあります。
痛みや不調を改善して欲しい。その為に手当てを行っております。
最近、よく耳にする、かかりつけ医はパソコン画面を見たままで、辛い箇所を触診や視診、聴診などはしてくれず、
診察も1分で終わってしまう… なんて事が無いよう真心をもって対応させて頂いております。
そんなきっかけで柔道整復師になる事を決意した私は、専門学校に入学したと同時に先ほどお話しした先生方に相談し、
とある接骨院での修業の日々を過ごすこととなりました。
午前は専門学校、午後から夜は接骨院修業。
家に帰ってからは、その日学校で教わった事を自分なりにまとめるといった作業を行い、寝不足の日々を過ごしていくのでした。
何故、接骨院勤務ではなく、接骨院修業と表現するのか。
周りの同級生の中には、勤務をしている仲間も大勢いました。
しかし、私が修業していた接骨院では、バイト代といったものは無いに等しかったのです。
今では考えられないですが、修業開始1ヵ月後頂いた心付け? は時給にすると300円にも満たないものでした。
もちろん雇用契約書などなく、せめて最初はアルバイトとして勤務出来るのではと思っていたので、
正直ビックリしてしましたが、知識も技術もない新米学生が、接骨院で修業させて頂けるのだから、
本当はこちらがお金を支払わなければいけない立場なんだと、納得させるしか術はありませんでした。
学費や生活費、遊びたい年頃でもあり、お金はいくらあっても足りない。
ここで修業を続けるか、別の所で勤務をするか、悩んだ結果親に頭を下げ、このまま修業させて頂く事にしました。
学生時代、修業に行かせて頂いていた接骨院は、先ほどのお爺さん先生の甥にあたる方が経営している接骨院で、
その町で10数年開業されていて、近隣の高齢者から学生まで、多くの方が訪れる町の接骨院でした。
とびきり明るく、声も高く美声の院長先生は、歌う事が好きでラジオから流れてくるBGMに合わせていつも歌っていました。
常日頃から鼻歌を歌っているような陽気な先生です。
特にミスターチルドレンの歌が好きで、ミスチルが流れると仕事そっちらけで本気で歌うもんだから、
弟子としては困ったものだと思っていました。
しかし、患者さんも歌う院長先生を微笑ましく思っていて、院の空気はいつも明るい雰囲気で満たされていました。
患者さんに治療をしながら歌を歌う… そんな接骨院、今はどこにも無いような気もしますが…(笑)。
更に昔は、院長自らギターを持ち込んで、患者さんも巻き込んで皆で歌う事もあったというのだから、そこまでいけば文句もない。
しかも、大相撲も好きで場所が始まる時だけテレビで相撲が流れる。
相撲が始まると、院長先生の目はテレビに釘付け。
手は患者さんを触っているが、目はテレビ。勝負が決する瞬間なんかは、平気で手が止まる。
ここでの修業の道を選んだ自分の行く末を心配になったりもしていたのですが、気付けば自分も相撲が詳しくなり
感化されたものでした。決して手は止まりませんでしたが(笑)。
明るい性格で人当りも良い。何でも相談しやすいかなと思い安心していましたが、
あれ!? 治療や施術に関しては何も教えてくれはしない? 新人研修の『し』の字も無い。
でも、学生の自分に修業初日から患者さんに治療をしてと言う。
そう。昔気質の性格、黙って背中を見て模倣してみろ!的な教え方なのでした。
なので細かい事を指示された記憶もなければ、違うダメと否定された事もほとんどない。
修業初日からしばらくは、冷や汗をかき続ける日々でした。
ある日、院長先生から今日は何を学んできた?と言われ、
親が子供の腕を引っ張った際に、子供の腕が抜けてしまう『肘内障』を習いました。へーそうかそうか。
なんてやり取りをしました。
なんと! 肘内障について学んだ翌日、近所の子が肘内障で来院したのです。
院長は迷わず私に整復して!と言うのです。
昨日、座学で習ったばかりで即実践!?
確実に顔が引きつっていたであろう私に、院長先生は昨日習ったから大丈夫だよと笑顔…。
子供には、もちろんお母さんが同伴している。お母さんからしたら、うちの子をこんな新米に任せても大丈夫なの?
と思っているかもしれない。
焦り動揺している気持ちを見せる訳にはいかない。
内心ハラハラしている私に、ギャーギャーと泣きじゃくる声は聞こえていないに等しかったでしょう。
何とか整復する事が出来ると、痛みが無くなったのか、子供は泣き止むことが出来たようで、
そこではじめて子供の声が耳に届いてきました。
その後、修業時代に何度となく肘内障を整復させてもらい、確固たる自信をつけさせて頂く事が出来たりと。
修業時代の3年間は、そんな事の連続でした。
学校の勉強とは違う学び。
今思えば、治療についてやその他の事、冷や汗を搔きながら学び学びの毎日は、
お金には変えられないかけがえのない物を頂いた日々でした。
例えば、固定法、テーピング、包帯処置をはじめ、接遇面やコミュニケーション能力などなど
様々な経験をさせて頂きました。
中でも一番は、自分で学ぶ事の大切さ。
幼少期から、何かを上達したいと思った際は、友達と一緒ではなく、一人で黙々と練習するタチでしたが、
患者さんを楽にしたいという想いから本当に多くの勉強をさせて頂いた3年間でありました。
今は、需要がないことから販売中止になってしまった「ローテル」という手作り湿布。
粘土のようなもに水を入れ、よく捏ねヘラで和紙に均等に塗る、油紙に合わせて患部に貼布し包帯で処置。
今は、見た事がない人の方が多いと思われるそんな湿布作りも良い想い出。
こんな短い包帯で足首を固定!? 無茶だと思われる処置も院長先生はサラッとやってのける。
家に帰ると、母親に足を借りて包帯やテーピングの練習に明け暮れました。
誰に言われるでもなく、一人前になるべく練習に明け暮れたおかげで修業二年目には患者さんから先生と呼んで頂ける事もでき、
徐々に自信もつけていきました。
ここだけの話、院長先生ではなく若先生に施術して欲しいと言ってくれる方も徐々に増え、それは糧となったりもしました。
ただ、柔道整復師の学校へ行っている3年間のうち、3回入院をしてしまう事もあったのは苦い思い出。
毎日、学校での勉強と修業、家に帰ってからも自習をサボる事は絶対にせず、睡眠時間を削り奮闘。
そんな日々を過ごしていると、若いとはいえどこかで無理が生じるもの。
年末年始やお盆期間、長い休みに入った途端、張りつめていた緊張の糸が切れる。
それと同時に扁桃腺が卵大に腫れあがり、高熱と咽喉の激痛で、食事をとる事が出来なくなり、入院…。
そんなハプニングが3回もありました。
学校の勉強も自分のやりたい事だったので、本当に楽しく学べました。
生まれて初めて、勉強する事が楽しいと心から思え、面白いようにテストの点も取れました。
最後の国家試験に関しても、ただならぬ緊張感の中、かなりの高得点で合格する事が出来た。
身を粉にして過ごしたかけがえのない3年間は、まさに修行と言ってもいいのではないかと今でも思います。
そして、あの3年間があったからこそ、今日の自分があると心から感謝しています。
お爺さん先生、お世話になった院長先生、
たかはしは元気です!
お陰様で今日も逗子市民の健康をサポートするために奔走しております。
つづく
たかはし鍼灸院・接骨院
逗子市沼間1-5-5 1F
046-894-2561
JR横須賀線 東逗子駅 徒歩1分
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